自由に生きるとは壮絶なこと
ようやく風邪が良くなってきたので、ねじめ正一『荒地の恋』を読む。帯には「五十三歳で親友の妻と恋に落ちたとき、詩人は言葉を生きはじめた。」とある。物語の主人公は詩人・北村太郎。
20ページほど読み進み、北村が、二人で会うようになって数度目の田村隆一の妻・明子の涙を見て、自分も泣いている(もらい泣きではない)ことに気づき、「明子さん、どうやら僕は、恋に落ちたようだ」と云う。ここからは一気読み。泥沼のような日々がつづく。が、しかし、泥沼のような日々が始まることによって、ほとんど詩を書かなかった(書けなかった?)北村が、次々と作品を書きはじめる。
富士正晴『書中の天地』の「詩人国日本」という文章の中に次のような一節がある。
昔、婚前詩人ということばがあった。結婚すると、潮がひくように詩想が失せて、詩を書かなくなる詩人をからかってこういった。つまり、その詩はニキビが出るようなぐあいに、彼の魂の中から生えて来ていたのだが、異性と結びついた安定のもとに、存在する理由がなくなって消滅してしまったわけである。
北村は恋をしてニキビが出はじめたということか……。
また、集英社のPR誌『青春と読書』3月号、谷川俊太郎×華恵の巻頭対談(この対談、すごく面白いです!)で、「いろんな経験をしながら、これからも書き続けていきたい」という趣旨の華恵の発言を受けて、次のような二人のやり取りがある。
谷川 そのほうがいいよね、散文は。小説家の場合は、具体的な人生経験を積んだほうが材料が豊富になっていいような気がするけど、詩っていうのは、そういう現実の体験がどこまで役に立つのかちょっとわからないような部分があるんですよ。
(中略)
華恵 でも、感情というのでは、いろんな経験を積んだほうが豊かになるような気がしますけど。
谷川 詩は感情では書かない――といい切っていいかどうかは分からないけど、少なくとも日常的な喜怒哀楽とは関係ないですね。もっと違う次元の感情というのかな、ぼくは「感動」といったほうが近いと思うけど、悲しいんだか嬉しいんだかよくわからない、でも感動したというのが、詩の基本的な感情だという気がする。
うーん、これも北村の恋に関係しているように思うのだが……。